匿名性は悪ではない、という基本的なことについて――「名前」という仕組みのセンシティヴさを扱うために――

 先日、「匿名は臆病だ」というタイプのことをおっしゃられる方がいらっしゃいましたが、私はそれに必ずしも同意しません。
 
 私が匿名性を負って発言しているのは、単に臆病者だから、ということではないつもりです。
 匿名性は「悪」でもないし、臆病であることと単純にイコールではありません。
 
 以下、あたりまえな人にとってはあたりまえすぎることを書きます。
 
 まず、私はネット上の活動はほとんど実名でやっております。そちらのほうは、住所も身分も、顔写真もすべてがバレバレの状態でネット上に存在しています。その理由は主に二つあります。
 一つは、実名で行動することが、「私」の活動への社会的な信頼を獲得するために有利なコミュニケーション戦略だと思うから。
 もう一つは、狭い業界の中で少し名前が知られているために、人前にも出る機会もあるので、なし崩し的にバレているから、です。
 本当は、私は一定の匿名性が自分自身に必要だと考えています。
 下記、その理由を書きます。
 

■ 論理を、「人間」から切り離すために (表現の匿名性の価値)

 
 私はで2chのようなコミュニケーションも嫌いではありません。それは、論理が人格やと切り離されて成立しているコミュニケーションだと思うからです。
 古いタイプの論客の方だと、論理と人格をセットにして語るのが好きな方が多いとは思います。確かに議論内容と、議論を語る「人間」が切り離せないことはあります。たとえば、フェミニズムに関わる議論は、語り手が女性であるか、男性であるかということ関係なしには成立しにくい議論の一つです。
 ただ、本当は、論理は存在と切り離してもいい場合が多い。
 「動物の権利は認められるか」
 「国際的な金融機構に対して、望ましい規制の在り方は何か」
 とかそういった議題は、私が発話しようか、私ではない第三者が発話しようがいいわけです。私の話した論理は、それが論理として成立しえているのならば、論理自体はそれそのものとして検討可能なわけです。
 このようなタイプの議論を行うとき、「実名公表しないのは卑怯だ」ということを言う人はおかしい。実名公表をしなくとも、論理は論理として機能します。言葉をしゃべる人間の立場や、発言の一貫性が問題にされるべきときは確かにあります。しかし、それは常に要請されつづけなければいけないものであるとは考えられません。
 

■ 私の身体を守るために (存在の匿名性の価値)

 
 匿名性を、表現の匿名性/存在の匿名性と分けている人がいます。東浩紀です。
 彼によれば、表現の匿名性とは、ひとが能動的な表現行為を行い、しかもその責任者の名前を隠したいときに必要となる匿名性(能動的匿名性)であり、存在の匿名性とはひとがただ存在しているだけのとき、そこで名前が奪われ知られるのを防ぐために必要な匿名性(受動的匿名性)のことだそうです。 *1
 東の区分を用いて整理すれば、先程お話したことが表現の匿名性の問題であり、これから書くもうひとつの切実な問題は「存在の匿名性」の問題です。
 
 私は、実名で活動している分、非常に怖い目にも何度かあいました。それほど、口汚い態度をとっているつもりはありませんが、あることについて批判したところ、数日後から、脅迫めいた書き込みを連続で半月以上うけました。冗談半分なのか、本気なのかが全くわからない「死ね」「カス」「居られなくしてやる」といった書き込みを繰り返し、されたことがあります。住所も職場も全てバレバレなので正直なところ恐ろしかったです。相手が本気なら本当に殺せるわけですから。
 こういうとき、私は、本気で存在の匿名性がほしいと思いました。
 私が何者かは公表してもかまわないけれども、自己の身体――より正確に言えば、家族などの私の周囲の人間も含めた自己の身体――の安全を保証するために必要な程度のプライバシーはほしい。
 私を攻撃する相手は明らかに匿名性を悪用していたわけですが、そのような相手と対峙するときに、こちらだけ匿名性がないというのはあまりにも分が悪い。相手はこちらを殺しやすいのに、自分は正当防衛を行いにくい。
 

■「名前」の持つ力

 私は、露骨に政治的な発言などはあまりしません。右翼にケンカを売るようなこともしません。ほとんどの人にとって、「たかが××の話」という程度の話しかしません。しかし、私の発言にパワーがある、ということを認める人がいて、私の発言するフィールドに人生を賭けている人がいたとき、私の発言は「たかが××の発言」ではなくなる。力を持ちます。
 おそらく、私に「死ね」と言った人は、私に「死ね」という価値を感じざるを得なかった人だと思います。その意味で、私が実名であることが、その人にとって暴力的に強力だったのかもしれない。ネガティヴな意味にせよ、私に「死ね」と書かざるを得ないほどに、私の名前が機能してしまっていたのかもしれない。
 彼は匿名であることを利用して、私にとって耐え難い暴力的存在でしたが、彼にとっては私の実名が、耐え難かったのでしょう。「名前」にはいろいろなものが積み重なることがあります。評判もつきまとうし、権威もつきまとう。それゆえに一歩間違えると思わぬ「力」も発揮してしまうかもしれない。
 もし、私がそこで、実名で批判せずに、匿名で批判していたらならば、事態は違っていたかもしれません。
 内閣総理大臣が、内閣総理大臣として「北朝鮮は問題国家」と言うことと、2chに匿名で「北朝鮮は問題国家」と書き込むことは全く違う効果を発揮するはずです。ときに、匿名性は実名の持っている政治性から自由でありうることができる。
 
 私は、匿名性を全肯定する気は全くありません。
 一方で、実名性だけを全肯定しようという態度も決して、望ましいものだとは思いません。
 
 それゆえに、匿名で活動をすることに特に恥じいるところはありません。
 これからも、匿名で書くと同時に、ネット上での実名の私も保持し続けると思います。
 そのような二重性を保つことによってこそ、「名前」という仕組みのもつセンシティヴさを処理することに、はじめて成功しうるのではないか、とも思っています。

*1:ised解説よりちょっと修正して引用。そもそもは『情報自由論』より