「処女でなければ耐えられないこと」――それ自体は責められるべきでない

(増田転載 *元記事:http://anond.hatelabo.jp/20081216192516

http://anond.hatelabo.jp/20081214164408

もやもやを君に

処女厨処女厨っていうけどさあ、僕は何がショックかって、
昔の心の動きが見えるのがきついんだ。
過去にあった恋愛とか、そこに至る紆余曲折とか、そういうのが。
自分の付き合ってる彼女の前の好きな人の噂を聞いて欝になる、
そういう精神性が理解されないことを僕は悲しみたい。
もっと言えば、その目の前にいる彼女は、自分の知らないところで、
自分と同じように身体を誰かに許していたんだ、もし処女でなかったなら。
だから僕は処女厨でありたい。
誰かのチンコ舐めさせられて、抜き差しされたような女と一緒になれるわけがないんだ。

「処女にこだわる」「処女でなければ耐えられない」と発言することについて、なんか、横で進行している話題に目がひっぱられてしまったのでメモ的にフォローしとく

■1.別にそれでいいんじゃない?何に耐えられて、何に耐えられなくても。:基本的に自由

発言した当人が、「自分の恋愛の相手が処女でなければ耐えられない」というのは当人の問題として別にぜんぜんアリだろう。
ある任意の人物が恋愛にいかなる形で関わりたいかということは自由であってよい。恋愛の関わり方への選択には、さまざまなオプションがありうる。
「彼はチョコが好きだ」「そして、わたしはガムが好きだ」というお菓子の選択と問題の構成は同じ。
好きなほうを選べばよいし、それは他人に強制するものではないし、強制されるべきものでもない。
ちなみに、わたしはこれから暴君ハバネロを食べるつもりだけれども、これは別にあなたに暴君ハバネロを食べろと言っているわけでもないし、誰かに強制されたわけでもない。あるいは、もし私が超辛党で、甘いものが食べられないような体の持ち主だったとしても、それは他人から責められる筋合いはないし、他人に強制する気もない

■2.でも、それで万事解決かどうかは謎よね:相手との調整問題はある。

しかし、わたしが暴君ハバネロを食う、という選択と恋愛行為に関わる選択をすることはまったく同じではない。
恋愛行為には、相手がいる。片方の欲求が、達成されなかったとき、それは調整される必要がある。
欲求を相手に負担を強いて、どうしても達成するか。あるいは妥協するか。あるいはすっぱりとあきらめるか。
お菓子の例で言えばこういうことだ。
2人でお菓子を買うときに、ひとつのものしか選べない場合には、双方の欲求や、選択、資源配分を調整する必要が生じる。わたしがハバネロを食べたいといって、相手が都こんぶを食べたいと言ったとき、相手と私の欲求を調整する必要が生じる。しかも、恋愛はお菓子を選ぶことよりもずっと重要で、ずっと重たい問題である。よって、この資源配分/資源調整の問題は、片方が我慢し、片方が欲求を通せば済む、という簡単な問題ではなくなる。
おそらく、「処女でないとがまんできない」という感性を持ってしまった人間は、苦労する。自分の欲求が達成されにくいから。

■3.ありがちな誤解を誘うことと、の問題:一般論なのかどうか

ということで、「処女でないとがまんできない」と発言した人へのわたしの感想は
「そうですか。それは大変ですね」
という一言で、基本的には終わる。終わっていいはずである。

しかし、発言してしまうことが誘いかけた問題はおそらく別にある。

「一般的に言って処女は許されるか、許されないか」

という問題がある。
どちらかというと、この問題は脇道、というかどうでもいい、とおもう。

発言者は、おそらく「処女性にこだわるなんて、無意味」というような一般的な恋愛言説を意識している。
そして、「処女性にこだわってしまう自分」が間違いなのかどうかを問うているように思える。
それは別に間違いではないし、そういう人はいる。その存在自体が否定されるべきではない。
「処女性にこだわってしまう感覚」は、様々な性愛の感覚の中の一つとしてあってもいい。
別にそれはなんら不思議な感性ではない。

しかし、往々にして、「わたしはXだ」という発言と「わたしはXだと思う」という発言は区別がつきにくい。
前者は、単に存在主張であり、討論の対象ではない。
後者は、一般論としてどうか、という議論であり討論の対象となる。

一般論として、「処女は許されるか」と問うならば、それは「許される」。未婚者であっても、それは日本社会では、一般的に許される。
しかし、わたしにとって処女が恋愛対象とならない可能性もあれば、Xさんにとって処女しか恋愛対象とならない可能性もある。それは単にそういうことだ。


■4.非処女の人間がショックを受ける可能性について

 「私は相手が処女でなければ耐えられない」と言う人間がいる、という事実に対して、
 もうすでに処女でなくなってしまった人が、それをショックに受け止めるかもしれない可能性、はあるだろう。
 そんなことが、境界線になるのか、というのはあるだろう。
 でも、別に、そういう人はいるよね、という話以上の意味がこの話にはあるのだろうか?

 もちろん、そのような意味を読み込むこともできるだろう。
 「付き合う女性は処女の人間のほうがいい」という男性ばかりの社会では、
 非処女の女性は抑圧的な気分を味わうに違いない。
 そういう男性ばかりの世界は、やっぱり抑圧的であると思う。
 もし、「私は処女でなければダメな男性である」という発言が
 「みんな、処女以外は許してはいけない」という発言という意味でなされるのであれば
 それは女性の側に、非処女である自由を抑圧する発言に他ならない。
 そういう意図なのであれば、その発言は責められてしかるべきだ。
 だが、この発言はそういうものではない。
 それは、ありがちが誤解が読み込まれているにすぎない、とわたしは思う。

■5.「私は本質的に処女でなければダメである」かどうかが不明であるという問題

 ただ、さらに少しフォローをするのであれば
 「私は処女でなければダメだ」と宣言する人間が、本当に「処女でなければダメ」なのかどうかは、
 実際に処女でない相手とつきあってみるまで、その問題が本当にどうにも覆しがたい問題なのかどうかは謎である。
 童貞なら特に。
 それは、自分自身が自分をそういう人間だと思い込んでしまっているからだ、という可能性はある。
 人間は思ったよりも、意外と変われる。意外と環境にすんなりとなじむ。大変な場合もあるけれども可能だ。

 ただ、「変わる」ために、あるいは「妥協する」ためにどのぐらい努力を要するのか、
 どのぐらい難しいものなのか、ということには個人差がある。
 どうしても無理な人は、いる。
 これをいないことにしてしまうのは横暴だと言ってよい。

 たとえば、同性愛で考えてみよう。
 わたしは同性愛者ではないので、同性の人間とセックスをしろ、と言われたら大変である。だいぶ厳しい。
 でも、最初はいやかもしれないけれども、強引にやられてしまったら、そのうち慣れてくるかもしれない。
 いや、それどころか、意外と1,2回でさっくりといけてしまうかもしれない可能性だってあると思う。
 でも、試してみる気はないし、試してみる必要性もいまのところない。
 いまのところ、わたしは同性愛者ではないと、わたしは思っているし、
 同性からセックスをせまられたら「ごめん。むり」と言う発言が尊ばれてしかるべきだと思っている。
 「意外といけると思うよ?」と言われるかもしれないけど。「でも、ごめん、むり」と言うと思う。
 「むり」だと思っているわたしは、後になってみれば愚かだったと言われる可能性はある。
 でも、それが愚かであるかどうか本当にわからないうちは、
 自分自身が「自分が同性愛者ではないと思っている」という意志の問題は尊重してほしいと思う。
 だから、「意外と大丈夫だと思うよ?」という発言まではOKだけれども
 「そんなもん、ぐだぐだと言ってないで、やっちまえばわかるって」という発言はセクハラでありNGだと思う。
 わたしは同性と、やりたくない。

 処女でなければ耐えられない、と述べる人が、自らの性愛感を主張し、相手に求めることは
 尊重されるべき事柄だとわたしは思う。
 事後的に観察すれば、それは「厨」かもしれないけれども、そうでない可能性もある。
 どうしても無理ならば、それは無理なのだろう。
 でも、無理だと思っているのが、単なる思い込みの可能性もある。
 自分で「思い込みかもしれない」と思えたのならば、ほんとに思い込みかどうかを試してみればよい。
 試した後には、「わたしには無理だ」という言葉の説得力は、一回り違っているだろう。
 試してみる価値はあるかもしれない。

(もちろん、繰り返すが、
 試していない人間の、「わたしには無理」という発言は思い込みである可能性もある。
 けれども、それを、「絶対思い込みだって」と他人が断定してしまうのは横暴である。
 「思い込みの可能性もあるよね」とまで、可能性を示すのは、横暴ではないと思う。)

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 もう誰も読んでないと思うけれども、補足。
 非処女の人が「ああ、私は対象外なのね」という形で疎外感を受ける、のと同時に
 処女が、非処女になることを想像するときに「私はそれをすると、対象外の存在になってしまうということなのね」という抑圧も受けますよね、というご指摘があり、そのご指摘はまったくそのとおりだとおもいました。