「わたし」が人をフィルタリングする、こと

(増田転載)

http://anond.hatelabo.jp/20100129222703

(下記引用)

最悪な夕食だった
いつもは自炊しているんだけど今日は面倒になったので途中駅で降りてご飯を食べてきた。そしたら隣の席に座ってた女性2人の会話がクソ過ぎて引いた。
彼女たちは最近行った合コンが最悪だったって振り返っているみたいだった。男性側幹事が高学歴を連れてくるとか言ってたから、2人はすごく期待して参加したのに、来た男性陣がぜんぜん高学歴じゃなくて、これじゃ詐欺だったと嘆いてた。彼女ら曰く「○○大って言っても○○学部だったらエア○○大卒じゃん。その学部で○○大卒とか言うなってのwww」とギャハギャハ笑ってた。こう書くとネタくさいけど、でもギャハギャハとしか表現できない笑い方だった。
なんていうか、合コンが残念な結果だったって話は良くあることだし愚痴ったっていいと思うけど、レストランとかで大声でする話じゃない。席変えて欲しかったけれど出された料理の半分くらいはもう食べていたし、仕方ないのでさっさと済ませてしまおう。そう思ってなるべく話を聞かないようほかの事を考えながら食事をすすめていたら、彼女らは何と「でもエア○○大卒の癖に私たちレベルと一緒に食事できたんだから向こうは感謝すべきなんだよね、本当は」って言った……。
もう、口にした文言どころか声質さえ覚えそうってぐらい引いた。そこまで言う彼女らのご尊顔を拝してやろうと思って(座るときにチラ見したくらいで、その時まではっきりと見ていなかった)隣の2人をよく見てみた。そうしたら、そこには30代前半かな?と思えるごく普通の女性2人が座ってた。別に美女でも醜女でもない、どこにでもいそうな、(30代なのが合っていれば)年相応の女性たちだった。
え、と思った。
同僚とかにいそうなごく普通の人たちに見えるのに、なぜそんなに上から目線なの。感謝って、男性陣は何に感謝すべきなの。エア○○大卒って何。
久々に"本気で引く"って体感をした。ここ数分の会話は周囲もなにげに聞いていたようで、皆さんチラチラ2人を見ていたけれど、彼女たちは気にする様子もなくギャハギャハ笑ってた。
それなりに品のよいレストランなんだけれど、なんという胸糞……。
彼女たちの人となりが知れるな、と思った。加えて、出会いの芽を自ら踏み潰していってるのに気付いてないんだなとも思った。あんな会話を公共でしていたら周囲からどう思われるか、彼女たちには想像もつかないんだろうな。

(引用ここまで)


叩かれるようなことを書くと、
自分も、まあ
「うーん、教養バックグラウンドがこれだけ違うと、腹を割ってしゃべろうとしても、微妙なニュアンスとか伝わらないだろうなー」
と思って、相手を「見くびる」ようなことは、わたしも内心では、よくしてしまう。
 
ただ、まあ、結局は、1対1で会話しはじめてから20分からそこらぐらいで、相手の雰囲気をみて判断することだ。
大学名とか、出身学部とかで判断をする、というのもその判断素材の一つにすることはよくある。
でも、それはあくまで、「腹黒いわたし」だということを一応は自覚しているし、結局は、判断材料の一つにしかならない。
 
会話をしてみる。
相手の反応を見てみる。
結局は、そこが全て。
  
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いままでわたしが付き合った人はみんな大学を出てないが、みんな、とても賢かった。
「大学」というシステムによって認められることのなかった賢さは、あまりにも数多く存在している。

ただ、その一方で、三流大の人の多くが「???」となる話題でも、東大と京大の知人は特に問題なく理解するとか、そういう露骨な事態が発生して悲しい気分になるようなことも、現実に、なくはない。悲しいことだけれど、傾向性とか、確率論的な話としては、それは確かにあるのだよね。
 
しかし、
そういう確率論的に悲しい事態を、積極的に肯定し、再強化してしまうような言説を採用して、その世界観の中で生きてしまう、ということはやはり悲しい。
社会はそこまで単純にできていないし、学歴によって人を判定する、という方法は、単に判断コストを少し低くするアクション以上のこととしては使えないし、使うべきではないとは思う。
学歴ヒエラルキーは、学歴ヒエラルキーを肯定するような言説を受け入れてしまう人の数によってその性質を強化させてしまう。
世間が、学歴ヒエラルキーの意味をもっと「弱く」受け取るような世間でありえたならば、学歴ヒエラルキーの意味も、実質も、大きく変る。
18才のときにどういう成績を取ったかということの意味も、たぶん、ある程度はあるだろうけれど、
それ以上に、
18才以後の日々を、どういう人と会話をして、どういう人と議論をして、どういうふうな楽しさを生きてきたか、ということは、おそらくその人のあり方を大きくかたちづくる。
でも、学歴やキャリアによって、人の交流が分断されれば、人のあり方は、より大きく分断されてしまう。それは決して明るい事態ではないと思う。
 
事実である、ということを認めることと、
その事実を肯定するという態度を選択することは、
はっきりと区別されなければいけない。
 
でも、この区別を行うことの意味を「大学名」で人を笑ってしまう女性たちは、理解していないのだろう。
とても、残念なことで、とてもあたまのわるいことだと思う.

あたまのよい人が、恵まれない社会的境遇/キャリアにいる、ということはいくらでもある。
まえに、某えらい人が、「あれほどの人が、こんな三流大学の准教授やってるなんてもったいない」とか言っているのを聞いていて、
それはそのとおりだな、と思いつつ、
その一方で、
「いやー、でも、この人の知性って、一流大学教授とかになるタイプの知性とはもっと別の知性なんだよなー。」とか思い聞いてもいた。
ものすごく専門的で、何がすごいのか素人にはさっぱりわからないけれど、本当にごく少数の専門家にだけにしか理解できないような、厄介なタイプのマニアックな専門性をもった人とかって、大出世するか三流で終わるかのどっちかだもんなー、とか思って聞いていた。
社会システムは、知性を峻別するための効率的な構造を、それほどきちんとした形でもっていない。
 
 
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話を逆の方面から見てみてみよう。
 
上記の記述は、結局はものすごくエリート主義である。
「勉強すれば、いい大学に入れる」というような、「努力」が意味をなすエリート主義よりも、
より一層、どうしようもなく、タチの悪い恣意性に満ちていている。

「あたまがいい」とされている人が会話して「あ、こいつ、ちゃんと、あたまいいじゃん。」と思われた人しか、救われない。
とてもどうしようもないことをわたしは発言している。
「東大だろうが、慶応だろうが、スタンフォードだろうが、ほんと、バカな奴は、バカ」という言説を支えることは
決して、ホメられたものではない。
「そういう、おまえさんは一体どれほど、頭がいいんだよ?ノーベル賞でも取れんのか?カスが。」
と、言われると、一挙に、ひとつの世界観が瓦解する。
 
「あの人は頭が良い」という感覚は、究極のところ、人々の主観に支えられている。
(IQやら、偏差値などというのは、人々の主観を定量化するために、近代になって発明された中途半端な道具でしかない。)

誰かを良いと思い、誰かを悪いと思う。
それは結局、人をフィルタリングすることでしかない。
「わたし」という恣意的な世界観のうちに、他人を巻き込んでしまう。そういうことだ。
 
「わたし」によって恣意的に作られ、人をフィルタリングする世界観は、
決して、多くの人を幸せにするものではないだろう。
もしかすると、今の学歴システムよりも、遥かにタチが悪いかもしれない。実際、そうだろうと思う。
 
「わたし」が他人をフィルターするシステムと、学歴ヒエラルキーのような制度とを比較したとき、
学歴ヒエラルキーがいかに欠点を持ったシステムか、ということは知られているが、
「わたし」が人をフィルタリングするシステムの欠点は、他の人には知られていない。
 
自らの人物鑑識眼に自信を持つ人は多いが、
多くの人の人物鑑識の自信は、それが、学歴システムよりもわかりにくく、複雑なシステムであることによって
批判されずに済んでいる。
「批判されない」というただ一点において、その自信が保護されたままになっている場合も、多いだろう。

わたしは、自らのオリジナルな人物鑑識能力が、学歴システムと比べられた場合、
平均的には、質の悪いものであることを積極的に認めてもよいと思っている。

「学歴ヒエラルキー」やその代替・補完的制度としての各種の「キャリア」システムは、ものすごく欠点が多い。
今後、よりよく改善していくことが常に期待されるのでなければありえないほどに、ダメなところの多い制度だ。
しかし、それでも、今現在、多種多様に存在している人それぞれの鑑識眼などよりも、相対的によく出来たところも多い制度であることは、認められてもよい。
たぶん、徒手空拳で戦闘をするよりは、近くの棒切れ拾って戦闘したほうが、ずっと勝率があがる、という程度のものとして、学歴システムは「マシ」である。
 
そのような制度と比べると、わたしの人物鑑識能力など、徒手空拳に等しい。
 
でも、わたしは、これからもオリジナルな人物鑑識能力を採用し続ける。ほぼ間違いなく。
それは、「わたし」の人物鑑識のフィルターが、わたしにとって心地よいからに他ならない。
きわめてエゴイスティックな理由から、採用し続けるだろう。
そして、わたし自信の見つめる世界が、わたしにとってよりよいものになるように、努力してゆくことだろう。
それは、他の人がよいことだと思うかどうか、ということとは、直接には交わらない。
 
 
 
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自由恋愛の相手、というものは、結局は「わたし」たちの話である。
それゆえに「わたし」に根拠を持たない世界観がそこで導入されるとき、人は驚く。
「え、ちょっと待って?あなたが好きなんだったら、学歴とか重要なの?」
と思ってしまう。
自由恋愛とは、そのような制度として構想され、社会的にぼんやりと共有されている。
それもあって、恋愛において学歴を問題にすることは、ひどく滑稽に映る。
「おまえら、なんなんだ」と思ってしまう、ということはそういうことだ、と思う。

まあ、こんなうだうだとした話をしなくても、「おま、何様wwwシネ、カス」で終了クオリティの話だとも思ったのだけれども、
なんか書いてしまった。反省。


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