「努力は万能ではない」ことを説得するロジック :努力厨への簡単な反論

*増田転載(元記事 http://anond.hatelabo.jp/20091115131536

http://anond.hatelabo.jp/20091115120926

■努力厨の俺の考え方を打ち砕いて欲しい
以前にもちらっと書いたのだけど、ちゃんとした反応がなかったので。

自分は基本的に、努力しても達成できないことなんてないと思ってる。
(これは自分の経験から)
達成できないのはすべて怠けたから。努力を怠ったからできなかっただけ。

別に誇張じゃなくて、本当にそう思ってる。
〜できないとか、自分には才能が〜っていうのは自分にとっては逃げの口上にしか思えないんだ。
本当に死ぬほど頑張っても出来ないことなんてないはず。
少なくとも自分はそうやってやってきたし。

今でいう派遣切りがどうとかっていうけど、楽な方楽な方を選んで、派遣とかフリーターになっていう、
そんな人間を保護する必要がどこにあるんだろうと思ってしまう。
切られるのが嫌なら、本気で勉強して別の職を目指すなり、正社員になれるようにするなり、なんとも方法はあったはずだろ。
結局はそんなことはせず、今が楽しきゃいいやってぬくぬく生きていたんだと思う。
(もちろん、全員がそうだとはいえないってのわかる。やむにやまれぬ理由がある人もいたんだろう。
でも、自分が書いたような人間も大勢いるのは間違いない。)

基本的に努力って一番大事なものだし、努力さえすればなんでも出来ると思うんだ。
団塊の世代は努力厨だから〜って書き込みをよく見るんだけど、
努力すればで何でも出来るっていうのは間違いじゃないと思うんだ。
俺の考え方はおかしいんだろうか?

「本当に死ぬほど頑張っても出来ないことなんてない」ということは言えるか、どうかということですが、

1.何度でも挑戦することができるのか

 いろいろな反論は可能ですけど、一つ大きなところは時間的猶予と努力が実る確率をどう考えるか、だと思います。
無限の時間的猶予や、確率的に「ないとは言えない」ということを全てについて言ってしまえるのなら、「本当に死ぬほど頑張っても出来ないことなんてない」という判断は、かなり実際に近づくと思います。しかし、時間的な限界や、達成確率のことを考えに入れれば、「本当に死ぬほど頑張っても出来ないことなんてない」…かもしれないけれど、「数多くの限界があることも同時に考慮に入れなければいけない」ということが言えるかと思います。

 たとえば、私は数学の専門的教育を受けていません。で、知り合いには数学科を出た知人がいます。
 これから、1年で、数学科を出た知人と、同レベルの数学能力を持とうと思ったとしましょう。私が死ぬほど数学を勉強している時間、彼も数学をものすごく勉強しています。この場合、私が彼に数学の能力で並ぶことは不可能ではないかもしれませんが、確率的には彼と同等になるという勝負は、かなり不利です。また、彼と私の数学に賭けてきた時間に6年間の差があります。この場合「残り30年で同等の能力」と言われたらだいぶ希望が見えてきます。私の蓄積1年間 vs 彼の蓄積7年間では勝負になりませんが、私の蓄積30年 vs 彼の蓄積36年 であれば、なんとか勝負になるんじゃないかという感触は出そうです。
 どのぐらい時間的猶予が認められるのか。1%の勝率を勝ち取るために、100回挑戦することが許されるのか、許されないのか。「何度でも挑戦が許される」のであれば、全てのことは出来るかもしれません。

1−1.
 しかし、私の一日の時間は有限であり、年もとります。私には社会的に様々なことが求められます。時間も、私の労力も有限な資源です。その有限な資源を全て割いてもいい、というほどに何かに努力するという「決断」を、まず、私の側で許せるのかどうか。それほどまでに重要なことなのかどうか、ということを私が決断できるほどのテーマに対してしか努力はできません。私の側の問題として時間が有限である、ということが一つあります。


1ー2.
 また、努力する目標となるものごと自体に時間制限があるのかどうか、ということも極めて重要です。何かの資格試験を目指してやっていたとしても、30歳や、35歳という区切りで、区切られてしまうものはよくあります。
 あるいは、市場にいい商品を投入してヒットがとれるかどうか、みたいなことに関しても、市場の需要がいま現在どこにあるか、みたいなことは時々刻々で変わりますので、ひたすらに努力するよりも、需要を喚起したり、需要を読む、といったセンス・運・相性みたいなもののほうが重要である、ということはママ、あるかもしれません。


2.努力が意味を持ちやすい領域/持ちにくい領域

 以上、「努力すればどうにかなる」という判断が成立するためには、a.達成目標の不変性 b.努力する行為者が、努力をするための合理性を持つこと c.何度でも挑戦が許されること といった要素が必要条件ではないか、と述べました。
 これが、限りなく成立しやすい(と、おもってしまえる)ような領域が存在するということはあるかもしれません。
 社会的な問題を扱う場合よりも、数学や自然科学のような分野の問題のほうが不変性は高いでしょうし、
 趣味で努力が必要とされることよりも本業で努力が必要とされることのほうが努力をするための合理性が成立しやすいでしょう、
 また人間関係のようなリセットの効かないものよりもコンピュータ・プログラムのデバッグみたいなことのほうが何度でも挑戦が許されるでしょう。
 問題の領域によって、「努力すればどうにかなる」の「どうにかなりやすさ」は変わると思います。

3.おすすめ文献、一冊だけ。

 なお、おすすめ文献として、メジャーどころでDQNな感じがして恐縮ですが、野中郁次郎ほか『失敗の本質』をおすすめしておきます。シンプルな「努力」に対する旧日本軍の信仰が、いかに大きな問題を生んだか、ということについての名著だと思います。

 以上、簡単でしたがご参考になれば幸いです。

                                    • -

*ちょっと追記

 http://anond.hatelabo.jp/20091031115858
 についても。

 前に、それほど人を選ばないような簡単な内容の授業をしていたときに、学生の課題提出率と、成績についての関係を調べてみたら

 ・成績の良かった子は、課題提出率が高い学生が9割で、課題提出率の低い学生はほとんどいなかった。つまり、成績の良かった子は「努力したから、成績がよかった」(努力しなければ、成績はよくならない)
 ・成績の悪くない子の、課題提出率は高い学生と、提出率の低い学生が半々ぐらいだった。つまり、成績の良い子と同じ程度の努力をしても成績の良くならない子もいれば、努力しなかったから(あたりまえのように)成績が良くない子もいた。

 という結果になりました。この場合、成績のよかった子が「努力したから、成績が良かった」というのはウソではありませんが、「努力をした全員が、成績がよくなる」はウソです。努力は成績をよくするための必要条件ではあっても、成績をよくするための十分条件ではありませんでした。
 これは、ある特定の授業の結果について調べた個別のケースですが、努力が有効になりやすいケースでも、「努力をしたから、成績が良かった」と「努力をしたならば、必ず成績が良くなる」ということが混同されて広まってしまっていることも多いように思います。
 さらに言えば、何かしらにつけ能力は高い人は、「努力をしたから、成績が良かった」人たちで集まりやすいように、社会的な集団がせばまっていく傾向(東大とか、慶應とか、大企業とか…)がありますので、「努力をして、だめだった人」が、「努力をして、成績が良かった人」のコミュニティからは排除されやすい、ということももしかしたらあるかもしれません。自分の周囲の優秀なサンプル、というのはサンプルとしてかなりバイアス(偏り)の高い可能性があります。なので、優秀とされている人とばかり話していると、どうしても「努力すればできる」的な感覚がさらっと前提にされていきやすい、ということはあるかもしれません。
 また、「努力してもだめだった」ということを、人生の比較的初期に、立て続けに経験してしまった人。努力が実った経験の少ない人は、人生のはやいうちから努力をすること自体から降りてしまいやすいため、なおかつ、「努力している人たちの集団」からは弾かれやすく、日常的に話す相手のサンプルとして選ばれにくくなる可能性が高いか、と思います。
 ここらへんの、意見形成コミュニティのバイアス、あたりは、何か良い研究データ的な裏付けがあればよいのですが、ここらへんは、推測込みですので、反論としてはやや弱いです。ただ、理屈としてはご理解いただければ幸いです。